FILMの存続が今、風前の灯となってしまった。信じ難い事であるが事実である。写真はカメラのファインダーを通して世界を切り撮る。カメラの中には FILMが当然装填されていて、撮った人はそのFILMに、自分が今見た事がちゃんと写ったかという事をとても心配してしまう。自分がいいものを撮ったと 確信すればする程心配する。時を置いてそのFILMを現像しプリントをする時、その不安や心配は最頂点に達している。暗い暗室の中、現像液に像が浮かび上 がり、その不安が喜びに変わる時、写真というものに深く関わっている自分をとても幸せものだと思わせてくれる。FILMでなくては味わえない写真の醍醐味 であり、喜びである。
フィルムとデジタルのひとつの違いは、フィルムによる写真は「絶対的」ではないということだとおもうのです。例えば、極端に言えば、同じネガから同じプリ ントは二度と生まれるハズがない。そして、その一枚のプリント、あるいはネガは、時の流れのなか、しっかりと残っていく力強さがあると同時に、ゆっくり と、刻々と変化していく儚さがある。それがフィルムの魅力であり、大切にしていきたい部分なのです。
手触りの快感
デジタルカメラの驚異的な進歩で写真現像は撮影された直後、圧倒的なスピードで全世界を駆けめぐることが可能になり、このスピードについて行けない者は映 像のビジネスの世界で生きていくことが難しい時代になった。しかしこんな時代だからこそ、FILMが持つ光の粒子にチカチカを網膜を刺激される快感にしび れ、ゼラチンシルバープリントの手触りと、その物質に刻印された深い深いリアリティーを楽しみつつ写真表現を続けていきたいものだ。
僕の写真との関わりは、18歳のときにモノクロフィルムを自分の手で、液温20度で現像することから始まりました。なにが何でもフィルムでなければというつ もりはありませんが、個人的には液体をかいさなければ何も進まないところと、フィルムが確かなひとつの「物」である点が気に入っています。
絵画に日本画、油絵、水彩画などがあるように、写真もデジタルの分野が急速に広がり、その表現や手法が増えたように思います。限られた一枚のフィルムに定 着された一瞬の世界は、暗室作業でフィニッシュされるまで、撮影者以外は何人たりとも入り込めない唯一の世界。新たな潮流で、銀塩による撮影は古典となる かもしれないが、時空を超える一枚を作るために思いを込める・・・フィルムはロマンティックなマテリアルだと思う。
現在、写真を取り巻く状況は日に日に、いい意味でも悪い意味でも、身近なものとなってきています。ところが一方で、その対象となる被写体のほとんどが、立 体物であるにもかかわらず、その表現は以前にも増して、平面的なものとなってきているように感じています。ですので、私はおそらく今まで以上に、 “Film”という立体物を使って、光をとらえていくといった写真行為は、大切な何かを写し出していく上で、かけがえのない表現になっていくのではないか と考えています。
今回の「ゼラチンシルバーセッション」の件で東京カラー工芸社の水谷一郎さんにお会いした。彼をとおして、故横須賀功光さんのオリジナルプリントを目にす る事ができた。写真をみていくうちに、横須賀さんがどんな想いでプリントしていたのだろう...とか、時って短いなあ...とか、その写真は僕に沢山のこ とを語りかけてくれた。銀塩、デジタルと両方で仕事をしている者として、銀塩の素晴らしさをまざまざと感じさせられた瞬間だった。
写真の世界では急速なデジタル化の波によってフィルムの存続自体が危ぶまれています。レコード針などは小規模な工場でも作り続けることが可能ですが、フィルムを製造するという事はハイレベルな塗布技術や徹底したエマルジョンの品質管理が必要なのです。世界的に言っても2〜3社しか作れないということがそれを証明しています。一旦製造を休止すると二度と再開することができないのです。確かにデジカメは便利で撮ったらすぐ見ることができます。プリントしなければお金もかからないしカメラも薄くて軽い。しかしフィルムで撮られた写真とデジタルとを比べるとフィルムの方が作者の思いや感情、その場の空気など数値化できないなにか大切なものが写し込める気がします。写真表現のひとつの手段でもあるフィルムをなくさないよう今回の展覧会がなにかのきっかけになる事を願 います。
撮影をする。そして、そのときの情景を再度頭に思い描き、整理するために印画紙へ落とし込んでいく。もういちど、撮影したときの空気を紙の上に表現するた めに。パソコンやデータでは整理しきれない表現も人の五感があれば整理できるように思っている。また、整理するには1秒以上の時間が要る。楽なほうがいい ということはわかっているが、手がかかるその時間がフィルムとニュートラルに戦える唯一の方法のように思う。
フィルムは私にとって技術的な事というより精神的なことが大きいかもしれないです。一枚一枚消費して撮っている感じ、緊張感がフィルムだと違います。またフィルムに焼きつく、という感じが好きです。
19世紀半ばに発明された写真はその後20世紀に新しい芸術表現の一つとして完成され、まだ一世紀半しかたっていません。しかしこの表現手段がその可能性 を広げる十分な機会を得ることなくいますでに葬り去られようとしています。まさにこれから写真芸術が深みに至る時代でなくてはならないと考えます。情報を 記録する技術としてのデジタル技術を否定するつもりはありません。しかしフィルム写真とデジタルによる情報記録はまさに別物であるはずです。人類最高の発 明のひとつである写真とフィルムを後世に残してゆかなくてはいけないと考えます。
人は生まれた瞬間から死に向かうわけでなんとか生きているぬくもりを魂の中にとどめたい、物質化したい、その願いが写真でありフィルムだ。
僕にとってフィルムや印画紙が無い世の中は考えられません。豊かな段調、深い黒、そして粒子の見えるプリント。それが写真だと思っています。勿論デジタル は、銀塩に比べて新しい技術でとても便利なものです。しかし新しいものが優れ、古いものが劣っているという論理はこの場合当てはまらないし、写真表現イコール、デジタルしか選択肢が無いというのは実に味気なく、写真に限らずそんな世の中になって欲しくないと思います。将来さらに技術が進歩し、銀塩⇔デジタルのハイブリッドな表現も増々盛んになって来ようとする時、表現の幅が拡がっていく為にも、長年培って来た、大切なものを失う事があってはならないと思 います。
かつてレコードがCDに変わっていった時、CDは音を数値に置きかえ人間に聞こえないとされる付加聴音はカットされているが、実はその超音波やノイズのよ うなものは、人の意識下に作用する大切なものであるという説がありました。写真もはやり目には見えないデジタル信号に置きかえられない気配や空気などがあ り、それが写って初めてひとの心の奥底に触れる写真になるのだと、僕は信じています。
学生の頃、共同通信社でフィルムストックを扱うアルバイトをしていました。現在も倉庫には、ガラス乾板で撮影されていた時代の貴重な歴史的なフィルムがた くさん保管されいます。驚くことに今もそのフィルムから、とても美しい写真をプリントすることができます。そしてその昔の大きいガラス乾板のフィルムのほ うが、実は美しいプリントを作ることができるのです。報道の現場では35mmのフィルムレスのデジタルカメラが主流になり、画質よりも情報の量とスピード が第一に求められるようになりました。撮影された写真によって、より速く、そしてより多くの情報を伝えることも重要ですが、後世にしっかりとしたイメージ を残すためには、フィルムもなくてはならない存在だと思います。
ここに一週間旅をして撮影してきたフィルムがある。まだ現像されていない。写真を撮りだして数十年、この期待と不安のはざまに毎回おいやられてきた。これからも同じ繰り返しであろう。写真家にはこの時間が必要だと思う。
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